ユメウツツ@MimeiTagawa

雨の匂い


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 何してるの。
 慎の電話はいつもそこから始まる。今、何してるの。
「家籠もり」と、こと子が答えると、受話器の向うから、ふふっと息だけの笑い声が聞こえてくる。だと思った、雨降りだからね。そう、雨降りだから。うん、じゃあ、ね。


 あっさりと電話が切れて、部屋の中の静けさが、電話を取る前よりもほんの少し濃くなった。レースのカーテンを開けはなした窓には、小さな雫が水玉模様をつくっているけれど、雨音は聞こえない。無声映画のように、雨はただ細い線を引いて降るばかりだ。


 やかんを火にかけて、お湯を沸かす。冷蔵庫から「しょうがジャム」を出して、こぶりのマグカップにスプーンで二杯。「しょうがジャム」は友人からの贈り物で、この冬はこの「しょうが茶」ばかり飲んでいた。すっかり春が来た今、瓶の底にはあと二、三杯分しか残っていない。その分だけ、肌寒い日がくるのかもしれない。今日みたいな花冷えの日が。


 花冷えは苦手だ、と、こと子は思う。菜種梅雨も嫌い、と。冬の寒さは覚悟しているから良いけれど、春のひんやりとした薄寒さは合点がいかない。裏切られたような気持ちになって、からだ中がざわざわしてしまう。
 やかんが、しゅんしゅんと湯気をはきだしたところで火をとめる。と、玄関のチャイムが高らかに鳴る。インターホンを取ると、案の定、慎の声がした。お届け物です。


 はい、お届けもの。そう言って慎が差しだしたのは、猫ほどの大きさがある新聞紙の包みだった。台所であけてみると、出てきたのは青々とした「そらまめ」だった。やわやわとした、莢つきの。


 並んで眺める慎に、「雨の匂いがする」と言うと、そう? と首をかしげ、長身のからだを折り曲げて、そらまめに顔を近づけようとする。そうじゃなくて。こと子は笑いながら、慎の腕を引く。雨の匂いがするのは、そらまめじゃなくて慎のほう。あ。そう? そうかな。スェットに包まれた腕を鼻先に持ちあげて、すんすんと匂いをかぎながら首をひねっている。雨の中にいた人に、雨の匂いは分からない。閉ざされた部屋の中にいるからこそ、忍び込んできた匂いに気づくのだ。


 リビングの小さなテーブルに向かう慎の背中に、「しょうが茶、飲む?」と聞くと、飲む、と振り向かずにうなずいた。うなずいても、うなじは髪で隠れていて、ずいぶん床屋さんに行ってないのだな、と思う。仕事がたてこんでいたんだろうな、とも。
 こと子も慎も、お互いの暮らしぶりをあまり知らない。必要以上に立ちいらないようにしているのは、出会った頃から変わらない。お互いにそういう性分なのだ、と、こと子は思っている。人と人のあいだには、ちょうどいい距離というものがあるのだと。


 戸棚から慎専用のマグカップを取りだして、しょうがジャムを入れる。マグカップは、いつだったか慎が自分で持ってきた。一日体験陶芸教室の取材撮影に行ったとき、どうしてもやってみたくなって自ら「体験」したのだという。所々深海のような蒼がまざった焦げ茶色のそれは、やはり小ぶりだったけれど、色も手触りも力強かった。いつだって、あっさり、ひょうひょうとしている慎が生み出したものとは思えなかった。「ここに置いておいてもいい?」 そう訊くのも、なんだかいつもの慎らしくないような気がして、こと子は少しうろたえた。うろたえながらも、「もちろん」と答えていた。
 でも、だからといって何も変わらなかった。恋人のようでもあり、そうでないような気もするふたりの間柄は、マグカップを並べてみたところで何ひとつ変わらない。


 やかんをもう一度火に掛けて、湯気がたつのを待つ。慎はテーブルの上にあった新聞を読んでいる。天井からさがるライトに照らされた慎の顔と手と新聞紙が、やけに白っぽい。
 まるで雨の日の教室みたいだ、と、少し懐かしくこと子は思い出す。音もなく降る雨に閉ざされた教室は、いつも白々と明るかった。誰もがなぜか、ひそひそ声でことばをかわし、無音ではないのに静けさに満ちていた。あの静けさが好きだった。妙に静かで、でも、安心で。


 勢いよく湯気があがり、やかんの蓋がかたかたと震える。火をとめて、マグカップにそそぎ、スプーンでかきまぜる。ゆっくりと溶けていく黄金色のジャムを眺めながら、これで花冷えの日が一回分減ったかも、と、少し安堵する。
 かさりと静かに新聞をめくる音がして、マグカップからたちのぼる湯気がゆらぐ。うす甘い匂いのする湿ったそれは、春の雨の匂いによく似ている。





雨が降って久々に「家籠もり」したら、なんとなく浮かんできたので書いてみました。特にどうということもないモノガタリを時々書きたいな、と。次がいつになるか分かりませんが(笑)
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by mimei14 | 2008-04-08 17:22 | 夢写つ(小物語)